― 健康と太極拳 ― 太極拳の実施と主観的幸福感(中谷 康司)
著者プロフィール
中谷 康司(なかたに やすし)
中央大学経済学部准教授
略歴
東邦大学医学部生理学講座を経て現職
博士(医学) 日本生理学会評議員
日本武術太極拳連盟理事
日本学生武術太極拳連盟理事
公認太極拳A級指導員
中央大学太極拳同好会会長
このテーマを覚えておいでだろうか。およそ10年前に日本連盟と愛好者の皆様にご協力いただいて実施した調査のテーマである。ご協力いただいた方も多いのではないかと思う。当時、所属する研究室の主任教授退職に伴い、独り立ちにあたって考えたのが「太極拳の実施と主観的幸福感」というテーマだった。それまで取り組んできた、運動が抑うつ気分や憂鬱の改善につながるというテーマから一歩進め、運動継続が人生の捉え方や全体的な充足感に良い影響を与えているのではないかという推察に基づいている。「幸福感」というキーワードは、世界一幸せな国とされるブータンの国王来日によって新たな社会評価の指標として注目を浴びていたこともあってか、科学研究費助成事業にも採択された。
さて、肝心の「幸福感」というテーマであるが、実はスポーツとの関連での研究は盛んではない。皆さんも太極拳の稽古や他の運動の後に「気分」が良くなったという経験はおありではないかと思う。そのような身体活動と「気分」の関連については我々の研究に限らず、これまでもスポーツ科学や心理学の分野で数多く取り上げられてきた。一方、「幸福感」という指標が取り上げられてこなかったことには理由がある。例えば、内閣府の幸福度に関する研究会では、「幸福感」の構成要素として3つの柱(■)と11の下位尺度(●)、そして別軸として1つの重要な要素(□)を上げている。
■経済社会状況
●基本的ニーズ ●住居 ●子育て・教育 ●雇用 ●社会制度
■健康
●身体面 ●精神面
■関係性
●ライフスタイル・家族とのつながり ●地域とのつながり ●自然とのつながり
□持続可能性
「幸福感」の解釈については様々なものがあるが、考え方として大きな違いはない。先ほどの「気分」という一時的な(恒常的ではないが比較的弱くある期間持続する)感情の変化と違い、居住環境や学歴、社会的地位、資産、収入といった「経済社会状況」や家族環境や地域情勢といった「関係性」、また「健康」面においても身体的特徴や遺伝性の疾患や慢性疾患などは、本人にとって比較的恒常的な属性であり、当人の努力では恒久的にもしくは短期的には代えがたい要素が多く含まれる。従って、このような可変性の少ない要素の影響が強い幸福感(の評価)が、例えばスポーツをするだけで変化するというような着想には至らないわけである(あるいは着想しても分の悪い研究として手を付けない)。これが、スポーツの中で「幸福感」が語られない1つの大きな要因である。しかし、別の観点からみると、例えば、経済的に恵まれていなければ、また教育の機会が十分に得られなければ、あるいはどこかに障害を持ってしまったら、その人は一生幸福にはなれないのだろうか、という論点も存在する。このような論点を解消するためには、幸福感を各要素の客観的な評価によって一方的に決めるのではなく、それぞれの要素は存在しつつも、あくまで「主観的」に心が満ち足りているかが問われると考えるべきである。そして、各個人がこれを感じる(評価する)にあたっても、各要素の重み付けは必ずしも均等ではなく、個々の興味や関心によってフォーカスされる部分が違ってよく、その結果として幸福感への各要素の貢献度が変わってくると考えられる。それゆえに、たとえ他の要素が欠けていたとしても、例えば好きな人と一緒にいられればそれで幸せである、といったようなことが成立するのだと言える。このような考えから我々の感じる「幸福感」の評価にあたっては「主観的幸福感」(以下、幸福感とする)という名称が用いられる。
そうした見立てで幸福感の評価を考えていった時、稽古に熱中し、これを日々実践していることが、我々の幸福感に影響を与えており、また評価の対象となり得るのではないかという研究の余地が生まれくる。私自身の経験とも非常に合致するものが感じられた。
研究の結果明らかになったのは次のことである。
【結果】(論文掲載分)
①太極拳実践者の幸福感は一般的な日本人よりも高い。
②両者の間には、幸福感の判断基準で重視する項目の分布に違いがあった。
一般的な日本人:「就業の状況」「家計の状況」「職場の人間関係」「仕事のやりがい」など仕事や収入に関係した項目を重視する人が多い。
太極拳実践者:「自由な時間・充実した余暇」「友人関係」「社会貢献」「地域コミュニティーとの関係」「健康状況」「その他」など、個人の状況や自由度、他者との関係性に関連した項目を重視する人が多い。
③太極拳実践者の高い幸福感には、太極拳の実施が直接的に関与するとともに、実践を通して「健康」や他者との「関係性」が満たされることが間接的に貢献している。
④幸福感には、単に技術レベルが高いことよりも、実施頻度(複数日実施)が影響する。
太極拳実践者(実践群)としているのは、2014年度の指導員講習会(普及、C級、B級、A級)に参加された方の中で回答にご協力いただいた方(解析対象2,372名)で、一般的な日本人(対照群)としているのは、内閣府経済社会総合研究所よりデータ提供を受けた2012年度「生活の質に関する世帯調査 個人調査表(B)」の回答者のうち6,021名分である。基本的に内閣府の調査に準拠して質問紙を作成し、両者の比較を行っている。
「とても不幸」を0点、「とても幸せ」を10点として評価してもらった幸福感では、対照群が6.67±2.07(平均値±標準偏差)であったのに対し、実践群では7.57±1.59であり、この差はかなり高い水準(有意水準***:p<0.001)で統計的に意味のある違いとなった【結果①】。
【結果①】
また、この幸福感を判断する際に重視した項目を両者で比べてみると【結果②】に示したような傾向の違いが見られた。この傾向の違い自体の要因、即ち太極拳をやろうと思う人にこのような傾向の人が多いのか、あるいは太極拳をやっているとこのような傾向(判断基準)になっていくのかについて言及することはできないが、どちらにせよ、太極拳実践者には経済的な要因に偏らず、様々な価値観から人生の充足感を評価している人が多いということがわかった。
【結果②】
また、実践者の調査では、判断基準として内閣府の調査にはない「太極拳の実施」という追加項目を設けたが、これを選択した割合は61.2%であり、この項目の選択者は1級の53.7%から技術レベルの上昇に伴って増え、四段では77.3%に達していた。半数以上が「太極拳の実施」を選択していることから、幸福感への直接的な影響も大きいと言えるが、選択していない人も一定数存在することから【結果③】に示したように他の要因を介した間接的な影響もあると考えられる。
【結果③】
今回、最も面白いと感じた結果は技術レベルによる幸福感の差異が見られず、実施頻度において幸福感に差異が見られたことである。先に示した通り、技術レベルが高いほど、幸福感の判断基準に「太極拳の実施」を選んだ人が多かったにも関わらず、各技術レベルの所持者の間で幸福感の違いは見られなかった。一方、実施頻度については1日/週の人と比較して、2、4、5、6日/週の人で幸福感が統計的に高い値を示した。従って、技術に関係なく複数日、実践の機会を持っていることが幸福感の上昇に影響するということを示している。今回、技術レベル取得からの経過年数は考慮していない。したがって所持している段級位を今、まさに取得したばかりの人もいれば、取得後、長い年月が過ぎてしまった人もいるので、このような結果になったのかもしれない。
日々、実践することは必ずしも容易なことではない。目標であったり、仲間とのつながりであったり様々な要因が継続的な実践につながっていく。資格を持っていることが重要なのではなく、常に目標を持ちながら仲間と一緒に日々、稽古しているということが幸福感の上昇に寄与していると考えられる。コロナ禍において、我々の幸福感はどのような状況にあっただろうか。稽古の機会や人とのつながりなど、色々なものが断たれることが多かった。やっとコロナ禍から解放されるかもしれない昨今、再び人のつながりを豊かにし、また新しい目標をもって常に稽古に取り組んでいただければと思う。そうすることが皆さんの幸福感を高めることにつながっていると信じていただきたい。
本研究の詳細はどなたでもご覧になれますので、興味のある方は以下からご覧ください。
http://id.nii.ac.jp/1648/00013351/