1.太極拳とは
1)歴史
中国四千年の歴史のなかで、「武術」、「医術」、「養生法」などの歴史は紀元前に遡ります。「太極拳」も武術の流派のひとつですが、太極拳そのものの起源は明代末、清代初(1640年代)と言われ、三百数十年前にできたものです。
しかし、太極拳の運動の哲理は、「老子」、「荘子」、「孔子」、「孫子」など(紀元前400~600年頃)の思想の影響を受けているものです(陰陽思想など)。中国の古代から連綿と伝わる智慧と文化に基づいて、幾多のすぐれた武術家によって作りだされたものが太極拳です。これらのことから太極拳は「哲学拳」とも言われます。
2)哲学
①「武術」の哲学・文化
一般に「武術」とは、徒手または武器による人間と人間の闘争技術、格闘技術を体系化したもので、人類の歴史とともに古いものです。闘いの技術は、人間の生死存亡に関わる根源的な行動であるため、暴走しないように制御しながら発達させることが必要でした。「武術」は闘いの技術であるとともに、発展するなかで教育、医学、政治学、社会学、芸術などと互いに影響を与え合い、多方面にわたって文化を発達させる要素ともなってきました。
武術の「武」とは、「戈(ほこ)を止める」の意であるとも言われます。闘いの技であるとともに、闘いを止める技でもある、と考えられます。
日本でも、現代の「武道」(剣道、柔道、相撲など)は、現代的スポーツとして発展していますが、武道の根本には、「武」によって「礼」と「徳」(「武徳」)を収めるという精神があり、青少年の教育、徳育を推進するスポーツ文化となっています。
②太極拳の哲学・文化
●「太極 (たいきょく)」の言葉の意味
中国の東周時代(紀元前800年頃)に書かれたとする「易経 えききょう」に、「太極」の言葉が出てきます【易に太極あり、これ両儀を生ず、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず】。
「太極」とは、天地万物が生成する以前の状態から、万物が生成・発展・変化するきっかけを作るものである、と考えられます。さらに「太極」から「両儀=陰陽」が生まれる、と考えられます。例えば、<原初の自然界で、万物が混沌としたガス状の状態(=気)から、「太極」の作用によって固体が生成し、固体の性質は「陰と陽」の性質を備えて発展し、変化する>と考えられるものです。
●変化の哲学
自然界や人間の行動などを「陰」と「陽」に区分します。「陰」は消極的、補完的な性質を備え、「陽」は積極的、実体的な性質を示すものです。「陰陽」は、「虚実」、「静動」という概念でも表現されます。「陰と陽・虚と実」などは、①互いに対立し、②互いに依存し、③互いに入れ換わる、ものと考え、物事が生成、発展、消滅、転化するプロセスに注目する考え方です。すべては変化し、その変化のなかに生きる道を見出す智慧を身につける、と考えます。
そのなかで、「虚」、「静」、「空」、「無」などは、消極的で有用でないものと思われ勝ちですが、実は重要で、有用であることに着目します(「虚は実を離れず、実は虚を離れない」、「動中求静、静中求動」など)。
●合理性を極める哲学
また、「小よく大を制す」(「4両抜千斤」)、「柔をもって剛を制す」(「以柔克剛」)、「己を捨てて、人に従う」(「捨己従人」)、「相手の力を借りて、相手を打つ」(「二人打一人」)、「後から発して、先に届く」(「後発先制」)、「静を保って動に触れれば、動はあたかも静の如し」などの考え方は、極めて合理的に社会や人に向かい合う考え方で、太極拳の対人闘争術の技法は、徹底的にこの合理主義に貫かれているものです。
●万人を利する
「老子」などは、「水」の性質(水は万物を利して争わず)や、「円」、「球体」の性質などの意義を説いています。太極拳の技法は、このような考え方に基づいています。太極拳は、力を使わず、柔らかく動くために、老若男女だれでもが行うことができて、練習する人に均しく、心身の健康をもたらすことができます。水と同じように万人を利することができるもの、と言えます。
「だれでもが始められる幅広い入り口があり、極めれば深い道と高い頂があるスポーツ」と言えます。
3)太極図
「陰陽」の考え方を表す「太極図」は、11世紀の北宋時代に周敦頤という人が著した「太極図説」という文献に示されています。現在の大韓民国の国旗はこの太極図が示された「太極旗」となっています。
2.運動の特徴
太極拳の練習法は、「形練習」(一人で形の練習をするもの)と、「推手(すいしゅ)」 (相手と組み手で技を競うもの)、の二通りがあります。また、呼吸を整え、体をゆるめ、意識を集中するために「站樁功 たんとうこう」=「立禅 りつぜん」などの練習も行います。
健康法として、大部分の人は主に「形練習」を練習します。熟練者は、徐々に「推手(すいしゅ)」の練習も行います。
「形練習」では、
1)姿勢をまっすぐに保ち、ゆっくりと伸びやかに動く。
2)心を落ち着けてリラックスし、体の筋肉や関節を緊張させず、柔らかく、軽く、ゆるめて動かす。
3)動作の前に意識が先行する=「意識で動作を導く」(「用意不用力」)。
4)呼吸は動作に合わせて、ゆっくりと自然に行う。
5)無理のない全身運動で、練習中も、終わったあとも、気持ちがいい運動。
これらの「形練習」は、体に無理な負担をかけず、体力に合わせて行うことができます。年齢・性別を問わずだれでもが練習し、どこでも、いつでも楽しむことができる生涯スポーツです。
「推手」では、相手の力を利用して相手を倒す、巧妙な技を練習します。「形練習」よりも高度な意識集中が求められますが、練習をする二人が、互いに柔らかい力のバランスを感じとり合いながら行うので、危険度が少なく、より深い興味が得られ、健康効果も高まります。
3.健康と生きがい
1)健康の効果
太極拳の健康効果としては、次の事柄が挙げられます。
①筋肉への効果
ゆっくりした意識的全身運動で、全身の筋繊維(特に下半身)を効率よく動員するので、足腰の筋肉が強化される。 ⇒ 「転倒防止効果」
②大脳への効果
意識が導く運動により、大脳皮質の血行が増加し大脳が活性化される。
③内臓への効果
練習中は、血液は身体の表部(筋肉)に集まっているが、運動が終了すると反対に内臓の活動を盛んにし、副次的に消化吸収を助長する。
④精神面への効果
練習により、脳波にアルファー波が発生する。また、エンドルフィンが分泌され、「気持ち良さ」を作り出し、精神面、情緒面に良好な効果をもたらす。
⑤減量の効果
ゆっくりした動作により、脳内にセロトニンという食欲抑制物質が作られる。太極拳を始める前に強い空腹感があっても、終わった後に空腹感が消失していることは、愛好者が均しく経験している。
⑥脊椎および軟部組織への効果
上下、前後、左右に無理なく動く全身運動は、現代人に欠落している背骨の運動として非常に効果的である。
⑦自己治癒能力への効果
太極拳の運動によって、心肺機能が増進し、血液性状が良好に保たれる結果、自己防衛免疫能力も増え、病気にかかりにくく、またかかっても回復が早い体質に改善される(風邪引きが減る、早く治るなど)。
2)生きがいの効果
太極拳は、力を使わずリラックスして行う、身体にやさしい運動ですが、「やさしい」ということは、「簡単すぎる」ことではありません。
「ゆっくりと均一の速度で、力を使わずに動く」ことは、現代人の生活習慣にないもので、手足のバランスを保ってゆっくり動かすことは、ある種の「むつかしさ」を伴います。
このむつかしさに上手につきあうなかで、上達への意欲を保ち、達成感を得ることができます。このことは、生涯スポーツとしての楽しさの源泉と言えます。一生を通じて楽しむことができて、少しずつ上達の達成感が得られることで、大きな生きがいが得られるものです。
また、愛好者が向上の目標を保つことができるように、「太極拳技能検定制度」(5級~1級の級位、初段~3段の段位)があり、全国数十万人の愛好者が向上を目指して励んでいます。
4.青少年のあこがれのスポーツ=カンフー、中国武術
映画や劇画の影響から、青少年・ジュニア層では、カンフーや中国武術はあこがれのスポーツであります。中国武術の基礎種目であるカンフーや「長拳 ちょうけん」などは、速い速度の攻防動作、蹴り技、バランス動作などを練習し、青少年の骨格、筋肉の発達、柔軟性、持久力の強化など、全面的な身体能力の向上を図ることができます。
身体能力の向上のみならず、武術を学ぶ者の基本として、礼儀、「武徳」の情操教育の効果を期待することができます。
カンフーや「長拳」は全国的に普及がすすみ、ジュニア、青少年(小・中学生、高校生)の愛好者が増えています。ジュニア層の向上の励みとなる「長拳級位制度=6級~1級」も全国に普及しています。
5.太極拳の社会的意義
1)「多世代交流型スポーツ」
太極拳は年齢を問わず楽しむことができるので、家族二世代、三世代(おじいさん、おばあさんから孫まで)が一緒に太極拳教室に通うことができます。また、一部には、ジュニアカンフー教室と太極拳教室を合併した「親子教室」なども行われており、多世代交流型スポーツと言えます。
2)「地域普及型スポーツ」、「太極拳のまち」
健康効果が著しく、年齢を問わないスポーツであることから、地域での普及がすすみ、地方行政なども予防医療の観点から、太極拳の普及に積極的であります。
福島県喜多方市は、市議会で「太極拳のまち」宣言を行い、「太極拳のまち、喜多方市」として、同市内のさまざまな分野で太極拳の普及を積極的にすすめています。
3)「高齢者の介護予防体操」
厚生労働省が推進する高齢者のための「介護予防事業」の有力なスポーツとして、太極拳の健康効果にたいする認識が一層すすんできました。上述の喜多方市では、2007年来、「介護予防のための太極拳体操」を開発して、その健康効果の検証に取り組んでいます。太極拳が今後ますます、期待される分野であります。
6.生涯スポーツと競技スポーツ
太極拳は文字通り、愛好者が生涯を通じて練習を続けることができる「生涯スポーツ」でありますが、もう一方で、「競技スポーツ」として国際的な普及がすすんできています。太極拳や長拳などの競技(型演武の試合)が行われていて、全日本選手権大会、アジア選手権、世界選手権大会などが行われています。
国際武術連盟には、147カ国・地域が加盟しています。2008年8月に中国・北京市で開催された「2008年北京オリンピック」では、オリンピック開催期間中に北京市において、「2008年北京武術トーナメント」(オリンピック公開競技に準じるもの)が行われました。近い将来に、オリンピックの正式種目化を目指して行われたものです。