― 健康と太極拳 ― 修行方法から得る太極拳のマインドフルネス効果(許 民)

著者プロフィール

許 民

略歴
1955年上海市生まれ(65歳)、大阪府立大学経済学修士卒、大阪府在住。
呉式太極拳5代目伝承者。学生時代に弾腿、戳脚、形意、八卦を習い、1980年代初期、呉式太極拳3代目伝承者楊孝文の弟子李関庭の入室弟子となり、2000年代初期、師匠の紹介で同じく3代目伝承者馬岳梁の弟子張金貴に師事、2010年張師匠が87歳で他界、以後、同じく馬岳梁の弟子周利明に師事、現在に至る。呉式太極拳中百舌鳥倶楽部、西九条倶楽部、大阪YMCA等で指導(1987年~現在)

われわれ現代人は、現実社会の中で様々なストレスにさらされており、無防備のままだと、心の病気になったり、ストレスに起因する体の病気になったりする。とりわけ平和環境の中で裕福に育った人間は相対的にメンタルが弱く、昨今の厳しい競争社会に身を置かれると潰れやすい状態になりかねない。ストレスに負けず心身共に健康を維持していくために、何か行動を起こさなければならない。そこで近年、アメリカをはじめ、GoogleやYahoo!、Facebookなど世界的な優良企業が社員教育としてマインドフルネスを導入し、日本企業も相継ぎ社員研修プログラムとして試み始め、グローバル規模で一大ブームを引き起こそうとしている勢いだ。筆者がマインドフルネスを初めて知ったのは1年前の社内研修の時だった。当時は直感的に「マインドフルネス」って自分の太極拳の修行方法及び効果と同じではないか、と思った。

そもそもマインドフルネスとは何か。これは一言で表すと「今この瞬間の自分自身の身体や気持ちの状態に気付ける、心のあり方」のことだ。われわれは、今この瞬間を生きているようでいて、実は過去や未来のことを案じて「心ここにあらず」の状態が多くの時間を占めている。つまり、過去に受けたストレスや未来への不安を自分で増幅させてしまっているのだ。こうした「心ここにあらず」の状態から抜け出し、心を「今」に向けた状態を「マインドフルネス」と言う。マインドフルネスの実践方法に「瞑想法」や「呼吸法」があるが、そもそもその由来は何だろうか。日本ではマインドフルネスを繰り広げている主役に僧侶がいるから、仏教の座禅に由来しているのではないかと主張する人がおれば、また、「座禅」と「瞑想」は異なると言う人もいる。どちらが正しいかの論は避けるとして、原理的には中国の「気功」と同源、と考える。 気功には、調身、調息、調心の三つの機能がある。調身とは、練功中に正しく一定の姿勢を保ち、動作を行うことによって体の筋肉のみでなく、内臓や中枢神経系に対しても良い影響を与えることだ。また、調息とは、呼吸の調整を行うことによって身体と精神を入静状態(体と精神の両方とも静かな状態に入ること)にさせ、自律神経機能のバランスを調整し、内臓を強化させ、精神を安定させることだ。更に、調心とは、自己暗示、リラクゼーション、イメージング、言葉の誘導などによって気を体の中に流していく意識を用いることで、大脳、中枢神経、内分泌系又は免疫系に影響を与え、内臓機能や精神活動が活発化され、病気の予防と治療に効果を得ることだ。座禅は単なる形ではなく、気功という中身を有しており、また、後述のとおり、気功の修行方法は座禅だけでもない。マインドフルネスの「瞑想法」や「呼吸法」によって得られる代表的な効果は、緊張緩和、ストレス低減、集中力・記憶力向上、免疫力改善と言われているが、それは上記の気功3機能の効果を超えるものではない。マインドフルネスの中身を見れば、むしろ気功の簡易版、普及版のように筆者は感じる。

気功は、「静気功」、「動気功」等に分類されているが、伝統武術としての太極拳は動気功の原理を活用している。しかし、世の中に普及している太極拳は、このような「気功的」ではなく、「体操的」が圧倒的に多いように思われる。その相違点は、やはり修行方法にある。体操的な修行方法では上述の効果が得られないと思う。

以下は自身の呉式太極拳の修行及び指導経験を踏まえ、「気功的」修行方法のポイントを修行段階ごとに紹介する。

呉式太極拳の修行において最も基本的な要求は、意念を用い、力を用いないことだ。これは気功における「調心」やマインドフルネスの「心を『今』に向けた状態にする」というトレーニングと趣旨が同様だ。太極拳の意念の用い方は「心法」と称し、マインドフルネスのようなシンプルな用い方ではなく、結構複雑で、修行段階によって異なる難しい一面がある。最初に動作の順番、体の姿勢及び身法要領に意念を用いることは当然のことで、ここでは詳述を割愛するが、修行を3段階に分けた場合の意念の用い方は以下の通りとなる。

第一段階のポイントは、動きを「軽く」、「ゆっくり」、「丸く」、「均等に」することだ。この4ポイントはいずれも相当意念を用いなければ、そう簡単に出来るものではない。大人の人間は何をしても力を用いる癖が付いている。動きを制御し、軽く、ゆっくりと、ムラのない一定の速度で円弧を描くことは、意念を用い続けなければ、実現が不可能だ。

第二段階のポイントは、①筋肉や関節をはじめ、全身至る所が肉体的・精神的にほぐれた状態になって動作の重みが感じ取れるようにすること、②全ての動作を腰主導でスムーズに行うこと、③体が一丸となって協調的に動くこと、④動作が途切れることなく首尾一貫して流れるように行うこと、の4つだ。これは第一段階より意念の集中度がより高くなり、その用い方も難しくなる。

第三段階のポイントは、①動作に陰陽虚実をもたらすこと、②呼吸法を用いること、③今まで以上に想像力を駆使し、動きの細部に亘って意念を配り、緻密に動作を行うこと、④最後に、今まで意念を配った上記諸ポイントを全て放念し、動きながら「静」を求める一点に意念を絞ること、という4ポイントだが、いずれも上級者が目指すアプローチだ。

第三段階のポイント①は、抽象的で解りづらいかも知れないので、以下少し補足する。陰陽とは、全ての物事を二つの側面で捉え、三法則、即ち、両者が互いに統一・対立・転換するという中国古代の哲学思想だ。太極拳はその起源にまだ議論があるものの、この哲学思想の土壌で生まれたことは間違いない。道教のシンボルでもある陰陽太極図は、その陰陽関係を如実に表現している。円の中で白と黒の2匹の陰陽魚が合体した図形で、白色は陽、黒色は陰を表し、陰魚が魚尾から魚頭へ広がってくるにつれて陽魚が魚頭から魚尾へ狭まっていくが、互いに円の中で占める割合が変わらない。また、陰魚の目玉が白、陽魚の目玉が黒になっているのは、陰の中に陽、陽の中に陰があり、陰の極まりが陽へ、陽の極まりが陰へと変わることを意味する。これが陰陽両面の対立・統一・転換の法則だ。虚実は陰陽の現れだ。動、剛…が実であるのに対し、静、柔…が虚になる。太極拳の陰陽虚実の表現はポイントとして2点挙げる。一つは動作の虚実を変化させ、片方を虚から実へ転換させると同時に他方を実から虚へ転換させることだ。この片方と他方は体の左右の場合もあれば、上下の場合もあり、また、体を成す各パーツ間の場合もある。今一つは陰陽太極図の横断面図の如く、動きを成す原動力(太極拳では「勁」と称す)に終始対立する陰と陽を併存させ、いわゆる「陰陽相済」という状態にすることだ。前者は動作・技によって意念を配分するが、後者は全ての動きに向きが相反するように意念の想像力を駆使するのだ。

気功の修行時に「一念代万念」というコンセプトで入静状態を目指すが、動気功としての太極拳も当然同様のコンセプトで修行する。「一念代万念」とは、一つのことに集中することで雑念を取り払う考え方だ。その一念は上記の如く、段階によって内容が異なるが、過去と未来を切り離し、心を今に向けた状態にするマインドフルネスのコンセプトと異曲同工だ。無論、健康増進効果も勝るとも劣らない。精神面の健康増進に特化されたマインドフルネスに対し、気功・太極拳はそれだけでなく、中医学、経絡学、武術における価値も世に認められているが、その価値を満喫するためにも肝心なのは、なんと言っても修行方法だ。

陰陽太極図

陰陽太極図