― 健康と太極拳 ― 太極拳の練習要領―「意・気・力」(上)(林 伯原)
著者プロフィール
林 伯原
略歴
1950年生まれ、北京体育大学大学院卒学術博士。1993年に来日後、国際武道大学体育学部教授、早稲田大学および中央大学の講師を務める。著書に『中国体育史』(北京体育大学出版社1989)『中国武術史』(北京体育大学出版社1994)『近代中国における武術の発展』(不昧堂出版1999)『中国武術史―先史時代から十九世紀中期まで―』(技藝社出版2015)など多数。劈掛拳・八極拳・翻子拳・太極拳および各種器械に精通。1989年の北京体育大学国際武術競技大会の48式太極拳の部で優勝。
太極拳は、肉体に運動負荷を与えることで筋力や体力を増強するスポーツや武道とは異なり、リラックスした状態で緩慢・柔和・沈静な運動を追究しつつ健康増進の効果を得ようとするものです。太極拳愛好家の皆さんは単なる運動形式の習得だけではなく、太極拳によって健康維持・増進の効果を得ることに強い関心を持たれていることでしょう。本稿では、太極拳で健康効果を得るために習得すべきポイントを意・気・力の三点に絞ってご紹介したいと思います。
1.「意」について ――
意識を用いて練習すること太極拳で健康増進の効果を求めるには、意識を足において練習することが大切です。ご存知のように、人間の老化はまず足から始まります。脚力が弱くなると、次に姿勢が崩れ、その結果、全身の筋力・瞬発力・柔軟性・バランス感覚の低下が進み、最終的には日常生活を送る能力まで失われてしまうのです。下半身を鍛えることは、健康と長寿にとって極めて重要と言えます。
人間の下肢は全身の骨格の5割、筋肉の7割を占めており、血液の約7割が下半身に集中しています。また、人間は二足歩行なので、血液は常に下半身に溜まりやすくなっています。血液は心臓から出て全身をめぐり、再び心臓へと戻ってくるのですが、上半身の血液が心臓に難なく還流するのに対し、下半身の血液は重力に逆らうため、なかなか心臓に戻ることができません。特に、下肢の体温が下がると、血流はいっそう悪化することになります。「周囲の気温と体温の関係図」をご覧ください。周囲の気温が35℃の場合、上半身と下半身の体温にほとんど差はありません。しかし、周囲の気温が20℃になると、上半身の36〜37℃に対し、足の温度は28℃に止まり、体内の温度差は8〜9℃にも達します。冬期の気温低下に伴って下半身や足先が冷えれば、体内の温度差がさらに大きくなることは容易にご想像いただけると思います。冷えによって下半身の血流が滞ると、全身の血行までが阻害され、免疫が低下して様々な病気が引き起こされやすい状態に陥ってしまいます。このような面から見ても、体を動かして下半身の血流を改善することは、健康のために非常に重要なのです。
ところで、太極拳愛好家の皆さんの中には太極拳に下肢の血流改善効果を期待されている方も多いと思います。それでは、どのような練習法が下肢の血液循環を促進するのでしょうか? 実は、下肢の血流改善を目的として太極拳を練習する場合、足裏あるいは「湧泉」に意識を集中する練習法がもっとも効果的なのです。
足裏には重要なツボが集まっています。特に、足裏の中央付近には「湧泉」というツボがあり、このツボには気力や体力を高める効果があるので、「生命力の源」とも言われています。隋代の名医であった巣元方は、「湧泉」について「気を足底の湧泉の部位に送れば、それぞれの導引法(呼吸運動と肢体運動からなる運動)はうまくいくものである。気の運び方にはそれぞれ一定の規律があり、運用が正しければ身体にとって大いに益があるが、気を用いることがわからない人は、ただ気を乱すだけに終わるであろう」と述べています。
太極拳を練習する際、意識を完全に足裏(湧泉)に下ろすことができれば、交感神経を通じて足および下肢の筋腱接合部にある深部感覚受容器に影響を与え、筋線維の興奮と運動に伴って静脈の血液量を増加させては全身の血液循環を改善することにつながるのです。つまり、太極拳を練習する際に意識を用いて足裏(湧泉)に集中しておけば、下半身の血流が改善され、健康増進に大きな役割を果たすことができるということです。
2.「気」について ――
気沈丹田を重視することおそらく一般の方々が普段の生活の中で呼吸を意識されることは、あまりないのではないかと思います。たいていは日々忙しく仕事や生活に追われて、呼吸を意識することなど考えたこともないのではないでしょうか。ですから、太極拳を練習することによって、呼吸を意識することができれば、人体の呼吸機能を改善することに大きな役割を果たすことになります。
清代の武術家である王宗岳は『太極拳論』の中で「気沈丹田」を太極拳の重要なポイントとして挙げています。「気沈丹田」とは腹式の深呼吸をする時、意識を用いて気を丹田に至らせるようにするという意味です。丹田とは、東洋医学では「ヘソの下、約3センチ」のところを指し、全身の精気が集まる場所とされています。丹田の修練をすることによって引き起こされる人体の様々な反応は、今日なお科学的に解釈することが難しいのですが、丹田を意識して深呼吸する呼吸法が太極拳を始めとする中国武術の技や力の向上に大きな役割を果たしてきたのは事実です。このため、古くから武術家は丹田を重視してきました。
実は、この「気沈丹田」には武術の要領として以外に、健康増進においても重要な意味があります。息を吸い込む際に丹田を意識し、吸い込んだ空気を腹部まで下ろしていくことをイメージすると、呼吸筋である横隔膜や腹筋などを十分に動かすことができ、特に横隔膜がよく働くようになります。横隔膜がしっかり働けば、息を吸う時には酸素を十分に取り込むことができますし、息を吐く時にはより多くの二酸化炭素を排出できるようになるのです。
呼吸が効率よく行われると、人体に必要不可欠なエネルギーを供給するATPという物質が十分に産生されるようになります。ATPは人体の細胞の増殖、筋肉の収縮、物質の代謝・合成など、生命活動に欠かせない重要な物質です。また、腹式の深呼吸はあたかも内臓をマッサージするように働きますので、内臓機能の改善、特に胃腸の運動を活発にし、消化を促進すると考えられています。さらに、「気沈丹田」の呼吸を意識的に行う習慣を身につければ、自律神経や内臓機能が調節され、様々な慢性病に対する予防・治療の効果が生じることも確認されています。
「気沈丹田」の呼吸法を身につけるためには、太極拳の練習を始める際、まず気を丹田に沈め、自然呼吸しながら呼吸のリズムを整え、体の安定を保つように心掛けることが大切です。しかし、不自然な腹式呼吸を無理矢理行ってしまうと、かえって呼吸が乱れて心気や動作の安定が失われ、姿勢も崩れてしまう可能性があります。すなわち、太極拳を練習する前に、丹田を意識しながら呼吸のリズムを整えて平静な自然呼吸を保つことは、基本的な要領とはいえ、極めて重要なことなのです。(次号へ続く)
※図版引用 周囲の気温と体温の関係図:山内昭雄・鮎川武二、『感覚の地図帳』、講談社、2001年、p.92